自分が学部生の時に仲良くしてくれた院生の人と同じ会社に入社した魔王くんであったが、
意気込んで1時間前に初出社したらすでに先輩がデスクにいた。
「桂先輩、お久しぶりです。さすが、出勤早いんですね」
「…ああ、君は…高杉か……、大学時代のように私のことは呼び捨てでかまわない……
それと、私は出勤が早いんじゃなくて帰っていないだけだ…」
「!?」
た、確かに少しスーツがシワシワで死んだ魚のような目をしている…。
「ここはそういう会社なんですか…?残業ばかりの…」
「……いや……」
その時後ろで誰かが扉を開ける音がした。
「おはようございます、…?」
出社してきたのは女性、というよりは少女と呼んだ方がいいような可憐な人であった。
俺を見ると不思議そうな顔をする。
「…ああ、蓮水さん、おはよう…、彼は今日からの新入社員の高杉だ」
それを聞くと蓮水と呼ばれた少女はぺこりと頭を下げて俺に挨拶した。
「インターンでこちらの会社にお世話になっています蓮水ゆきです。
今は事務や雑用をお手伝いしているので何かあれば呼んでください」
そう告げるとやわらかな髪を揺らして俺の横を通り過ぎた。
「…」
俺は動けない。少女の香りが鼻をかすめてゆく。
俺を見つめた瞳、不思議そうにかしげる顔、お辞儀をした時にするりと肩からすべり落ちた髪…。
残像のようにそれらが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「高杉…?」
呼ばれて初めて自分がそこに突っ立っていたことに気づく。
「…君の机は私の向かい側だ…」
取り繕うように苦笑いをしながら指示された場所に向かう。
荷物を置きながらふと顔をあげると、給湯室から蓮水さんが出てくるのが見えた。
「お疲れ様です」
そう言って桂と俺の机にコップを置く。湯気が立ち上るコーヒーだ。
(…飲めない……)
などとは言えず、礼を言う。
(俺のために淹れてくれたのだ、きちんと感謝せねば)
「ありがとう、蓮水さん」
いえ、と微笑む彼女は美しい。インターンはいつまでなのだろうか。
新入社員だからと怯まずに彼女を手に入れたい。
「蓮水さん、インターンは…「…いつもすまない…ゆきさんの淹れるコーヒーがないと一日が始まらないな…」
「!?」
俺の言葉を遮ったのは桂であった。しかも今…。
「そう言ってもらえると嬉しいです。それと…いま、ゆきって…」
そう、下の名前で呼んでいたのだ…どういうことだ、先ほどは蓮水さんと言っていたのに。
「…蓮水さんと…懇意になりたく…、迷惑だっただろうか…」
「そんなことありません。まだ失敗も多いので色々と教えてくださると嬉しいです」
ざ、ざまーみやがれ、会社内でなら仲良くしてねって暗に言われてるじゃないか。今度は俺のターンだ!
「…っ…、蓮水さん、おかわりをください」
苦手なコーヒーをなんとか飲み干して俺は話しかける。
「はい、今お持ちします」
彼女は再び俺に向かって微笑んだ。
よし、勝った、俺の勝ちだ、…と思った時。
「そうだ、桂さん。この前商店街のくじでオロナミンDが当たったんですけど、
いつも頑張っていらっしゃる桂さんにと思って持ってきちゃいました。冷蔵庫で冷えたらお持ちしますね」
思わぬ展開に展開についてゆけない。蓮水さんに心配してもらっているなど…。
どういうことか聞こうと立ち上がった時にまた誰かが入ってくる音がした。
「おはよーございまーす」「まーす」
時計をみればそろそろ出社時間だった。他にも社員がどんどん自分の席につく。
「あれ、知らない顔が」
「今日から新入社員としてお世話になります高杉です」
そう言って挨拶をして回った。

……

「ふう」
一段落したところで机に何かを置かれる。
「大丈夫ですか」
きっと俺の挨拶まわりが終わるタイミングを見計らって持ってきてくれたのだろう、
先ほど頼んだコーヒーのおかわりが目の前にあった。
やはり俺は何かと蓮水さんに気にかけられている気がする。どうアプローチをかけようか…。
「なあ、桂さん今日も泊まり込みだって?」
デスクの反対側から誰かの声がきこえてきた。
「…ああ…」
「頑張りすぎですよー」
なんだ、強制的に残業があるわけでもないのか。ほっと一安心する。
「でも、以前は18時になった瞬間に立ち上がって帰っていましたよね。どうしたんですか、突然」
…ん?…そういえば確かに、院生の時も桂は面倒なことは極力避ける男だった。それなのになぜ…。
「あっ、よく考えると、蓮水さんが来てから残るようになりましたよね」
「俺わかったぞ、泊まり込むと朝早くに蓮水さんと話せるからだ!」
な、なんだと……!?
「桂さんやる〜ヒュー」
「…よさないか…たまたま、仕事がたまっていただけだ…
それにそんなことを言ったら蓮水さんに迷惑がかかるだろう…」
嘘だ、絶対嘘だ……!仕事処理の有能さは何度も見てきたぞ、俺は…!
タイピングはマッハスピードだし、6000字ぐらい1日で充分じゃないか、とか院生の時に言ってた。
そんなやつが泊まり込みをするほど仕事をためるわけがない…!
「噂をすれば蓮水さんが来たぞ!」
振り返るとそこには不思議そうな顔をした彼女がいた。
だめだ、危険だ!などという心の叫びは届くこともなく蓮水さんは会話に混ざってしまう。
「あの、何か…?」
また可愛らしく首をかしげる彼女に見惚れるが、そんな場合ではない。
ハラハラしながら聞き耳をたてる。
「桂さんが蓮水さんと話したいがために残ってるって話です」
「…やめないか…」
「そうなんですか?」
気付いているのかいないのかわからないが、彼女は単刀直入に聞き返す。
「…いや、私は昔からどこでも眠れるから、ここでたまった仕事を終わらせようと…」
確かに、院生の頃、研究室でプリントや本に埋れて寝ていたのを発見したことはあるが…。
そんなことを思い出し納得している場合ではなかった。
「…もちろん、蓮水さんと話せるのは嬉しいが…」
やつはとどめをさしてきた。どうする、どうすればいいのだ俺は…!
「えっと、あ、そうだ。オロナミンDお持ちしますか?」
お?スルーされているぞ?フフフ…ハハハ…
「いただこう…」
「では、今お持ち…」
そこで俺はにやけた顔をあげて驚く。
「いや、自分で取りに行こう。…ゆきさん、お気遣いありがとう…」
そう言って頭をポン、となでてから給湯室へと向かう好敵手を見たからだ。ボディタッチだと…!?
愕然とする俺をよそにオロナミンDを持って戻る好敵手はにこやかだ。しかし…
「…ふ…」
「!?」
目があった瞬間に鼻で笑われた。やつは本気だ…俺を牽制している…!!
俺は、明日からどう戦えばよいのだ…!!


……などということがあり、出会った日から俺はゆきのことで頭がいっぱいでした。
今ではこうして仲人役を引き受けてくれていますが、当時は相当手ごわい敵でした…なあ、桂?」
俺がそう言うと会場がドッと笑いに包まれる。
「…本当に、青臭い高杉に負けて当時は私もやけくそになったものですが…
おかげで仕事に邁進し、今では部長という重職を頂けているのですから、
ふたりには感謝しなければなりません…」
また会場が笑いに包まれると、俺はマイクを受け取る。
「ということですので、どうか部長をいじらず、優しく接してやってください。…それと、」
そこでマイクをゆきに奪われる。
「あ、私から言いますね。
お仕事の方は辞めませんので、これからもどうか変わらずに私たちをよろしくお願いします」
すると、会場の男どもが歓声をあげる。
我が妻ながら昔と何ひとつ変わらず美しいその微笑みに憧れを持つ社員も多いのだろう。
「…あまりそのように喜ぶと…高杉が黙っていないぞ…」
そんな桂の声が聞こえた。そうとも、
「俺の嫁に手を出そうものならば、この高杉、地獄まで追いかけて魔王にもなろうぞ、なあ…ゆき?」
花嫁の純白の腰を引き寄せて宣言する。
会場は静まり返り、ゆきは真っ赤になる。
「…だから、言ったというのに……」
昔の好敵手が静かに笑ったのが聞こえた気がした。



2012.10.08〜09